<サイキックと人格と>

May 20, 2019

最近、「スピリチュアル」という言葉に

すごい嫌悪感を持ったことがあって、

何でだろうと自分自身も不思議に感じて、

そのあたりの気持ちと向き合ってみたのです。

 

引き金になったのは、FBで繋がっている、ある人の投稿から

以前会った事のある人が現れ、その人が非常に神格化していた人物を思い出したから。

 

 

その神格化(教祖的とも言う)された人は自称サイキックで、

その活躍ぶりはググればいくらでも見つかるのだけれど、フォーカスしたのは彼の「人柄」という部分。

 

人や自分が持っていない能力を持っている、それだけで人は、その相手を自分よりも価値ある人に感じたり、自分作ヒエラルキーの上の方に据えたりします。

 

サイキック能力は特定の人が持っているものではなく、

誰もが様々な種類の能力を持っていながら、あえて人生に負荷をかけたりするための封印していたりする。そんなことを以前聞いたことがあります。

 

 

で、その能力を持っていようが、居なかろうが、そんなことよりも、その人の「生き方」や「考え方」の方が大事で、自分という在り方がお餅自身だとすると、能力だ何だは、つぶあんやきな粉や納豆などの被せ物に過ぎない。

 

自分の行動に惹かれてやって来た人を自分の欲望のままに利用したり、騙したりする、その「在り方」自体が問われる。

 

誰がどんな得意や能力を持っていてもいい、でも、その使い方を決めるのは「在り方」から形作られる自分自身であるわけです。

 

 

で、なぜその人が浮上して来たかというと、先日、セッションでお話をしに来てくれた人が、その人の過去の経験からスピリチュアルなどを口にする人に嫌悪感や不信感があると教えてくれたからです。

 

 

口八丁で「見えないもの」を利用したビジネスがあるのは遠い昔から存在して、人生に迷い、「自分とは何か」という問いに向き合った人は、多かれ少なかれ、そういう怪しい人に助言を仰ぎに行ったりする傾向はあることが、ことの発端に繋がる事ではあります。

 

人の真剣さとか、誠意とか、善意を利用する、悪用する、

そういう性根に嫌悪感が湧いた、

それが今回の顛末なのでした。

 

 

どんな能力を使って、どんな仕事をしていようと、

それはただの「上物」であって、大事なのは中身、

その人自身。

 

特別(だと思い込んでみている)な能力があるから、

その人が人格的に素晴らしいとか、そういうのは全く

関係ない。ハワイの友人が、以前、やっぱり同じことを言っていたけれど。

 

邪な考えを持っている人は、

変な空気を醸し出していたりするし、

なんか違和感あったりする。

 

まあ、今回珍しくムカ!と来たのは

真剣に世界を見ようとしている人が過去に手にした出来事が

あまりにもひどいものだったから。

 

教訓:人は見極めて(感じて)選びましょう

 

 

 

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